東海道57次・守口宿を歩く
〈維新150年〉守口宿
目次
2018-11-23 大阪府・守口市 大阪あそ歩
地図表示に少し時間がかかる場合があります。
赤色は、今回歩いたコースのGPS軌跡です。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明を見ることができます。
参加コース行程
「発」地下鉄谷町線守口駅~①江戸川乱歩寓居跡(名探偵明智小五郎誕生の地)~②京街道一里塚跡~③盛泉寺(東御坊)・明治天皇行幸時内侍所奉安所跡~④難宗寺(西御坊)・明治天皇宿泊の地~⑤守口宿本陣跡~⑥大塩平八郎ゆかりの書院跡~⑦高札場跡(再現したものが別の場所⑩にある)~⑧文禄堤跡~⑨桂小五郎宿泊(茜屋)跡~⑩再現した高札場~⑪司馬遼太郎居住跡(「梟の城」執筆の地)~⑫船宿「丁字屋」跡~「着」ゴール解散・地下鉄谷町線守口駅
今回歩いた守口の現在地図と明治時代の地図比較です
明治時代には淀川がまだ街道付近まで流れていたんですね。
今回のまち歩き概略
京街道または東海道57次の宿場町である守口を巡ります。
大阪あそ歩HPより
明治天皇が慶応4年3月に大阪への行幸の際、一泊した宿泊の地((難宗寺)、大塩平八郎密談の地跡、江戸川乱歩寓居跡(名探偵 明智小五郎誕生の地を含む)の4か所、豊臣秀吉ゆかりの地(文禄堤、日吉町、豊秀町)、司馬遼太郎住居跡、桂小五郎宿泊の地、三洋電機発祥の地、三洋電機創業者の住居跡 などをご案内いたします。
「発」地下鉄守口駅~①江戸川乱歩寓居跡
地下鉄谷町線守口駅からすぐのところに江戸川乱歩寓居跡があります。
ただし現在はマンションになっていて、説明板もマンション内部にあるので見つけるのが難しい。
江戸川乱歩(名探偵 明智小五郎誕生の地を含む)寓居跡は守口市内に数箇所あります。上の画像場所はその一つです。
②京街道一里塚跡
◎上(東)見附(京都側)と旅籠
宿場の出入口には見附があり、見張りの番兵がいた。
又、旅籠「あたらし屋」もこの付近にあった。
◎瓶橋跡
この場所に幕府直轄の公儀橋「瓶橋」があった。
現在も2本の橋柱が残っています。
③盛泉寺(東御坊)
明治天皇行幸時内侍所奉安所跡
明治天皇がこの地に宿泊された際、三種の神器を入れるための正門の横に重ねて「堀重門」が新たに建造された。
街道の道標
桝形という道を直角に曲げた地点。曲り角に道標が立っています。
直進しないように注意を喚起しています。
④難宗寺(西御坊)
明治天皇宿泊のお寺
難宗寺HPです。
明治天皇大阪行幸時の御座所を見学しました。
写真も撮ることが出来ました。
手前の赤いのは、天皇から拝領した旗です。
⑤守口宿本陣跡
守口宿には本陣が1軒ありました。吉田八兵衛の宿屋です。敷地は約300坪あったそうです。
本陣近くには問屋場もあり、この辺りは宿場の中心でした。
街道の道幅も広く15メートルありました。現在も当時のままの道幅です。
守口宿とは
守口宿(もりぐちじゅく)は大坂街道の宿場。現在の大阪府守口市本町1・2丁目、竜田通1丁目、浜町1・2丁目付近にあたる。
大坂を出て最初の宿場であり、東海道五十七次として数えると最終の57番目の宿場である。
ウィキペディアより
古くから交通の要地であったが、元和2年(1616年)に宿駅に指定された。江戸時代後期の『東海道宿村大概帳』によれば宿場町の長さは南北11町51間。問屋場1・本陣1のほか旅籠が27軒あった。
枚方宿へ3里、大坂へ2里という近さであったため、当初から馬継ぎはなく、人足のみの勤めであった。また淀川に面していながら川舟との連絡がなかったため、淀川舟運の発展につれて次第に貨客を奪われ、宿場の運営に影響を与えた。
しかし一方で、清滝街道(現国道163号)の分岐点だったこともあり、旅籠や茶屋がたちならぶなどして繁栄した側面もあった。
ちなみに守口宿で出された特産品の一つに、守口漬がある(但し、現在と製法はかなり異なる。守口漬参照)。
ウィキペディアより
現在も一部に宿場町の面影を残す家並みが残っている。また街道が淀川左岸の堤防(文禄堤)上にあった様子を見ることができる。
⑥大塩平八郎ゆかりの書院跡
白井孝右衛門邸跡です。
白井家は守口宿の村役人を務める名家でした。
大塩平八郎とは陽明学の師弟関係にありました。
大塩平八郎の乱の後、事件に関わった廉で長男と共に処刑されました。
建物は近年まで残されていました。
⑦高札場跡
高札の再現したものが別の場所⑩にあります。
高札(こうさつ・たかふだ)とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法である。
なお、特定の相手や事柄を対象として制定された法令(特別法)を記した同様の掲示を制札(せいさつ)と呼ぶが、その実際の運用上は厳密に区別されていたとは言い難かったようである。
ウィキペディアより
ここは桝形になっていてここで曲がります。
⑧文禄堤跡
文禄堤(ぶんろくつつみ)は文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道。
ウィキペディアより
現在の大阪府枚方市から大阪市長柄まで全長約27km続くとされる堤防で、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に淀川の改修工事を命じて建設。慶長元年(1596年)に完成した。河内平野に淀川が氾濫するのを防止するのに役立った。また堤防の上は大阪と京都を結ぶ最短路である京街道(または大坂街道)として安定した交通路となった。
守口市駅近くに残る文禄堤跡。堤上の旧京街道から撮影。文禄堤を道路が横切っているため、堤の断面が歩道の壁になっている。
現在でも、大阪府守口市の守口市駅近辺に文禄提の跡が残っている。
◎徳永家(わたか跡)
徳永家(わたか)河内木綿問屋跡です。
道路向かいには徳永家本家跡がありここは守口漬で有名でした。
⑨桂小五郎宿泊(茜屋)跡⑩再現した高札場⑪司馬遼太郎居住跡
文禄の井戸
本町橋
本町橋下は切り通しとなっていて、道路が通っている。
⑫船宿「丁字屋」跡
かつてこの近くには淀川の船着場がありました。
そのための船宿「丁字屋」もこの地にありました。
今は義天寺が建っています。
義天寺についてはこちらをどうぞ。
◎馬車停車場跡・下(西)見附跡
馬車停車場跡
明治6年ごろから郵便馬車が走り出し、人を運ぶ馬車も明治43年まで走っていました。
その頃にあった馬車停車場の跡です。
下(西)見附跡(大阪側)
宿場の出入り口には木戸があり、番所が設けられていた。
昔は下見附の松の木があったそうです。
「着」ゴール解散・地下鉄守口駅
守口は思ったよりも見所多かったです。
三洋電機発祥の地でもあり、江戸川乱歩や司馬遼太郎なども住んでいた街です。
文禄堤や守口宿など歴史的な場所や、明治天皇行幸に関わるお寺もありました。
訪れるまでは全く知識ありませんでしたが、興味深い街だなと思いました。
ガイドの長谷さん、結城先生ありがとうございました。