東住吉区矢田から松原市へまち歩き

新大和川と分断された村々
~付替えがもたらしたものは?大和川の南にもある大阪市域へ~

2019-2-20 大阪市東住吉区・大阪府松原市 大阪あそ歩

地図表示に少し時間がかかる場合があります。
赤色は、今回歩いたコースのGPS軌跡です。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明を見ることができます。

参加コース行程

「発」近鉄南大阪線・矢田駅~①天道川跡②賽(さい)の神社③下高野橋④下七郷橋~⑤阿麻美許曾神社⑥手束太郎源光盛⑦芦田秋窓~「着」ゴール解散・近鉄南大阪線・河内天美駅

今回歩いた矢田-松原と明治時代の地図比較です

左:現在 右:明治時代

今回のまち歩き概略

今回歩く東住吉区矢田から大阪府松原市との境に大和川が流れています。

大和川は江戸時代中頃までは今の柏原市付近から今の大阪市内から淀川向けて流れていました。

度々の洪水で1704年に付け替え工事を行い、新大和川は今のようなルートになりました。

それまではこの間は川がなかったので、歩いて通れました。信長も秀吉も真田信繁も歩いて堺に行ったり、古市街道を行き来したのです。

しかし新しく川ができることによってそれまであった村が分断されることになったのです。

目の前の川は、ずーと昔からあると思いがちですが、新しく作られることがあるのですね。

江戸中期に大和川が開削され、矢田から天美にかけて七つの村々が分断あるいは消失した田畑の代替地により陸続きとなりました。

300年たった今も分断の痕跡、干拓された天道川の痕跡、村民の誇りと文化などが垣間見られます。

大阪あそ歩HPより

「発」近鉄南大阪線・矢田駅~

近鉄矢田駅・ピンボケです。すみません!

近鉄南大阪線・矢田駅に集合してまち歩きスタートです。

画像がピンボケすみません。待ち合わせ場所の適当な画像がなくて仕方なくピンボケ写真をUPしました。

これに懲りずにお読みください。


①天道川跡~

天道川跡です
現在の矢田駅付近の地図と明治時代の地図です

この付近には今川や駒川が流れています。今は昔とは流路は変わっています。

昔は天道川という川も流れていたそうです。

②賽(さい)の神社~

またまた賽(さい)の神社の画像ピンボケ。本当にすみません。UPしなくても良かったのですがね・・・

賽(さい)の神社とは

道 祖 神 で「 馬 街 道 」と も 呼 ば れ た 下 高 野 街 道( 四 天 王 寺 ~ 田 辺 ~ 天 美 ~ 八 下 ~ 狭 山 )の 一 角 に あ り ま す 。
村 に 疫 病 が 入 ら ぬ よ う に 、ま た 旅 人 の 安 全 を 祈 願 し て 祀 ら れ た も の で す 。
昔 、近 く の 川 を 流 れ て き た 石 が 泡 を 吹 い て い て 、村 人 が 拾 い 上 げ る と「 我 は 火 の 神 で 、寒 い か ら 火 を 炊 い て 欲 し い 。 供 養 す る 者 に は 1 年 間 息 災 の ご 利 益 を 与 え る 」 と 言 っ た と い う 伝 承 が あ り 、「 火 除 け と 家 内 安 全 の 神 様 」 と し て 大 切 に さ れ て い ま す 。
毎 年 1 月 1 5 日 が「 と ん ど の 日 」で 、火 の 中 に 差 し 入 れ た「 書 き 初 め 」が 高 く 燃 え 上 が る ほ ど 、学 校 の 成 績 が 上 が る と い う 古 老 の 話 が 伝 わ っ て い ま す 。
戦 前 は 大 和 川 の ほ と り で 、1 4 日 夜 か ら 1 5 日 明 朝 ま で 徹 夜 で 行 わ れ て い ま し た が 、現 在 で は「 賽 の 神の石」は祠の中に納められ、とんど焼きのさいに火に掛け、それが済めば、石に晒し布を巻いて酒をかけて、元に納める神事が続け ら れて いま す。
「この 御 利 益 で 戦 争 中 にこの 地 域 に 爆 弾 が 落 とさ れ な かった」として、現 在 も 灯 明 が 絶 えず、信 仰 が 継 続して いま す。

大阪あそ歩・まち歩きマップ集pdfより

下高野橋へ行く途中(下高野街道)

ガイドさんから燻製の馬肉の提供がありました。

下高野橋のたもとで調理してもらい美味しくいただきました。ごちそうさまでした。

またタヌキが住みついていることに驚きです。野生のタヌキ見たの初めてです。

これこそまち歩きの醍醐味かな?

賽の神社付近の現在と明治時代の地図

大和川の大阪側は松原市に含まれるところが多いです。飛び地と言うのでしょうか。

逆に松原市側にも大阪市に含まれる場所があります。

新大和川が出来たために昔の村が分断され、その後どちらにつくかによって今日があるようです。

普通、川を市の境界線とするところが多いのですが、大和川は歴史的な生い立ちで両方に混在するのです。

③下高野橋~

下高野街道が通る下高野橋です。

下高野橋の下を流れるのは新大和川です。上の画像の近鉄南大阪線の鉄橋の橋脚の一部が去年の大雨で浮いてしましました。

復旧はしたのですが、いまだに工事をしています。大和川の川底は硬くなく橋脚の補強工事が続けられているようです。

④下七郷橋~⑤阿麻美許曾神社~

下七郷橋(今井戸川)

⑤阿麻美許曾神社付近の現在と明治時代の地図です

今井戸川にかかる橋が下七郷橋です。通っている道は下高野街道です。

今井戸川は、 東除川と西除川の間の地域の水を集め、大和川へ流し込む重要な川です。

今の大和川は江戸時代に付け替えによって作られた川です。

新大和川が出来て七つの村が分断されたそうなので、下七郷がその名残でしょうか?

下高野街道も新大和川によって分断されました。昔は渡し船だったのかな。

村も分断されたため大阪市側でも松原市として残ったり、松原市側でも大阪市のままのところがあります。

阿麻美許曾神社

阿麻美許曾神社は大阪市東住吉区になります。松原市側ですが神社は大阪市の住所で残りました。

佃煮の廣川

昆布の廣川

ガイドさんの紹介で佃煮の有名なお店の見学です。

昆布の廣川」といって、松原市の「まつばらブランド認定」にも選ばれているお店です。

私もお土産として買って帰りました。美味しかったです。

松原の素晴らしさについて

ガイドさんの説明

ガイドさんから松原の地は古くから開けとても豊かなところだったとの説明を受けました。

またこの地の歴史や土地利用についても興味深い話がなされました。

⑥手束太郎源光盛~

城連寺・池内共同墓地には、阿麻美許曾神社宮司のお墓や手束太郎源光盛のお墓があります。

手束太郎源光盛の詳しいことはこちらでどうぞ。

近鉄天美駅付近の現在と明治時代の地図です

⑦芦田秋窓~「着」ゴール解散・近鉄南大阪線・河内天美駅

芦田秋窓

敬恩寺

敬恩寺には芦田秋窓の「超えし山」襖絵と句碑があります。

「着」ゴール解散・近鉄南大阪線・河内天美駅

近鉄南大阪線・河内天美駅

大阪市矢田から松原市天美まで歩いてきました。ここで解散です。

新大和川が出来たことにより村々が分断され、今日までその影響が残っていること(飛び地など)に驚きました。

この地の歴史の重みを感じました。

また、ガイドの萩原さんからの差し入れやお店紹介もありました。ありがとうございました。

懇親会

懇親会で訪れた「だるまや」

最後に懇親会がガイドさん行きつけの「だるまや」でありました。

私も参加させていただき楽しい時間を過ごすことができました。串カツ、お好み焼き、焼きそば美味しかったです。

有意義なまち歩きの1日でした。

  • X