水の底に消えた蕪村のふるさと・旧毛馬村を歩く
明治の土木遺産(重要文化財)に驚愕
目次
2019-4-21 大阪市北区・都島区 大阪あそ歩
地図表示に少し時間がかかる場合があります。
赤色は、今回歩いたコースのGPS軌跡です。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明を見ることができます。
参加コース行程
「発」JRおおさか東線城北(しろきた)公園通駅改札前~①城北緑道~②赤川鉄橋~③与謝蕪村生誕碑~④旧毛馬洗堰、旧毛馬閘門~⑤毛馬橋~⑥蕪村公園~「着」ゴール解散・淀川神社~◎ 解散最寄駅・JRおおさか東線城北公園通駅
今回のまち歩き概略
俳人・与謝蕪村は享保元年(1716)毛馬村生まれ。
芭蕉の足跡をたどって東北を周遊後、京に居を構え大坂にも何度も立ち寄りますが、生まれ故郷には一度も帰ろうとしませんでした。
新淀川開削で消えてしまった蕪村のふるさと・毛馬界隈を歩きます。
大阪のまちを水害から救った明治の土木遺産(重要文化財)も訪ねます。
大阪あそ歩HPより
蕪村のふるさと旧毛馬村を歩くの動画を作成しました
「発」JRおおさか東線城北(しろきた)公園通駅改札前~①城北緑道~
蕪村のふるさとだけあって、駅の出口名にも蕪村口の名が。
駅前の商店街の名前も「蕪村通り商店街」となっています。駅名も蕪村駅にすればよかったかな・・・
城北緑道公園ではさくらまつりが行われていましたが、歩いた時間には終わったところでした。
②赤川鉄橋~
JRおおさか東線が開通するまでは、赤川鉄橋を複線部分を使って通行できたそうです。
歩いてみたかったです。
赤川鉄橋から毛馬に向けて淀川の土手を歩きました。風が心地よくいいところです。
昔の淀川は今の大川(天満橋などを流れる)だったのですが、洪水が多発。新しく淀川改修工事を行い、新淀川となって現在に至っています。
新しい淀川ができたために一部の村が消えてしまいました。その一部の村が毛馬村で蕪村の故郷でもありました。
③与謝蕪村生誕碑~
淀川と大川(旧淀川)の分岐点付近に与謝蕪村生誕碑があります。
与謝蕪村はこの辺り毛馬村で生まれました。でも大阪を離れた後は二度と生まれ故郷毛馬村には帰らなかったそうです。
④旧毛馬洗堰、旧毛馬閘門~
旧毛馬洗堰
淀川から大川(旧淀川)に分流する場所には毛馬閘門があります。
淀川には淀川大堰が設けられています。
沖野 忠雄は新淀川開削や毛馬洗堰造築で活躍した人です。
旧毛馬閘門
毛馬閘門とは
水位の違う淀川と大川をつなぎ通行できるようにするための水門。
淀川は大規模な洪水が頻発し、流域の人々に甚大な被害を及ぼしたため、明治政府は明治29年より淀川の大改修工事を開始しました。 毛馬には閘門(明治40年竣工)と洗堰(同43年竣工)を設置し、これにより旧淀川(大川)に流れ込む水量を調節するとともに、船運の利便を図りました。 共に煉瓦造で、要所に花崗岩を貼っています。現在の閘門と洗堰は昭和49年(1974)に新造されたものですが、明治時代の旧第1閘門と旧洗堰は淀川河川公園内に保存されており、国の重要文化財となっています。
大阪観光局HPより
大川(旧淀川)の浚渫工事で、大川の水位は大幅に下がり、新淀川との水位差が広がり、閘門が対応できなくなったため、最初の閘門の下流に二つめの閘門が大正7年(1918年)に設置された。水位調節は第二閘門が行い、第一閘門は常時は解放して新淀川の水量増大時に閉鎖する役目となった。
ウィキペディアより
1974年(昭和49年)に現在使用されている閘門が完成、第一閘門、第二閘門は1976年(昭和51年)まで併用され、その後第一閘門周辺は公園施設として整備された。第二閘門水路は現在は舟溜まりとして使用されている。
1983年(昭和58年)までに現在の淀川大堰・毛馬排水機場が完成した。
⑤毛馬橋~
⑥蕪村公園~「着」ゴール解散・淀川神社~
毛馬橋の川のそばに蕪村公園があります。
蕪村の歌碑が多く設置されています。
公園のそばを大川が流れ区民の憩いの場所にもなっています。
ゴールの淀川神社には蕪村の像もありました。
本当に与謝蕪村一色の感じがしました。みんなで盛り上げようとしている気持ちが伝わります。
与謝蕪村のふるさと、もう少し他の地域の人にも知ってもらいたいのですね。
解散後懇親会が中華料理屋でありました。私も参加させていただきました。
懇親会では、いろんな方と話ができてとても有意義な時間を過ごせました。
今回のまち歩き、大阪らしくない場所のように思われました。
旧毛馬洗堰、旧毛馬閘門など大阪にこんな場所があったのかと驚かされました。
もっと多くの人に知ってほしいです。
そして淀川沿いを歩いた時の風の心地よさ。大阪にも安らぐ場所があったのですね。
とても充実したまち歩きでした。
ガイドの酒井さん、ありがとうございました。