新大阪じゃーなくて「古大阪」?

中島大水道悲話から法橋・蔀関月の墓まで

2019-4-28 大阪市淀川区 大阪あそ歩

地図表示に少し時間がかかる場合があります。
赤色は、今回歩いたコースのGPS軌跡です。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明を見ることができます。

参加コース行程

「発」地下鉄御堂筋線・新大阪駅南改札口前~①さいの木神社②光用寺③立森瑞神(野中の巳さん)④旧中島大水道⑤正通院(蔀関月墓所)「着」ゴール解散・淀川河川敷~◎ 解散最寄駅:地下鉄御堂筋線・西中島南方駅

今回のまち歩き概略

昔も今も“まち”は市民がつくる。江戸時代の歴史秘話の現場を探る。
聖武天皇の時代、天平19年(747)に僧・行基が創建したと伝えられる光用寺や、延宝6年(1678)に自分の命をなげうってでも中島大水道を完成させ、村を救うとした3人の庄屋たちの遺徳を偲ぶさいの木神社、名挿画家・蔀関月ゆかりの正通院などを巡ります。

新大阪界隈の意外な歴史に触れてみて下さい。知られざる町の史実と伝説にますます謎は深まります。
先人の治水に学ぼう!ほんま、他人事やおまへんで。

大阪あそ歩HPより

「発」地下鉄御堂筋線・新大阪駅南改札口前~①さいの木神社~

地下鉄御堂筋線・新大阪駅南口

地下鉄新大阪駅に南改札口があるなんて知りませんでした。多くの人も利用は初めての人が多かったです。

さいの木神社

さいの木神社とは

江 戸 時 代 、こ の 辺 り は 土 地 が 低 く 、た び た び 淀 川 が 氾 濫 し ま し た 。疲 弊 し た 農 民 を 救 う た め 3 人 の 庄 屋( 山 口 村 ・ 西 尾 六 右 衛 門 、北 大 道 村 ・ 澤 田 久 左 衛 門 、新 家 村 ・ 一 柳 太 郎 兵 衛 )が 主 唱 者 と な り 、治 水 工 事 を 幕 府 に 直 訴 。延 宝 5 年( 1 6 7 7 )に 工 事 許 可 が お りましたが、費用は全額百姓持ちでした。年貢だけで精一杯の生活を強いられていた 百 姓 に は 無 理 難 題 で 補 助 し て ほ し い と 嘆 願 し ま し た が 聞 き 入 れ ら れ ず 、か え っ て 工 事 許 可を取 消され、庄 屋 たちはついに我 慢 が できなくなり、延 宝6 年(1678)無 許 可の ま ま 治 水 工 事 に 乗 り 出 し ま し た 。村 民 た ち も 老 若 男 女 を 問 わ ず 、私 財 を な げ う っ て 工 事に参加。現在の東淀川区~此花区間の約9.5キロ、幅平均約22メートルの水路(中 島大水道)をわずか約50日で完成させました。しかし無許可の禁を犯した3人の庄 屋 は そ の 責 任 を 負 っ て 、細 目 木( さ い の き )と 呼 ば れ て い た 当 地 で 、江 戸 の 方 角 を 睨 ん で自決したといいます。さいの木神社はその3人の庄屋の遺徳を讃えたものです。

大阪あそ歩HP・まち歩きマップより

西 尾 六 右 衛 門の墓

近くの西町霊園の中に西 尾 六 右 衛 門のお墓があります。

今も供養されているようです。

②光用寺~

光用寺とは

聖 武 天 皇 の 時 代 、天 平 1 9 年( 7 4 7 )に 僧 ・ 行 基 が 創 建 し た と 伝 え ら れ る 大 変 古 い お 寺 で す 。も と は 法 相 宗 で し た が 、正 中 元 年( 1 3 2 4 )、第 38代住職の空専のときに佛光寺第7代了源上人が寄留。自筆の光明本尊ならびに自画像を下附され、浄土真宗佛光寺派に改宗して護國 山 光 用 寺 と 号 す る よ う に な り ま し た 。本 堂 の 裏 に は 平 家 の 猛 将 で「 屋 島 の 合 戦 」で も 功 名 を た て た 平 景 清( 通 称 ・ 悪 七 兵 衛 )と そ の 郎 党 の 墓 が あ り ま す 。ま た 暦 応 年 間( 1 3 3 8 ~ 1 3 4 2 )に 播 磨 の 守 護 大 名 ・ 赤 松 範 村 が 、向 き 合 っ て 抱 き 合 う よ う に 咲 く「 比 翼 さ つ き 」と 呼 ば れ る 珍 しい品種のさつきを奉納し、それが江戸時代から明治初頭にかけて高さ3メートル周囲21メートルと山のように咲き誇るようになったの で「さつき寺」の名で親しまれるようになりました。花の咲く頃には、多くの参拝者で賑わい、当時としては珍しく外国人の来訪もあり、特に 若 い 男 女 に は「 願 か け さ つ き 」と し て 人 気 が あ っ た と い い ま す 。惜 し い こ と に 今 は 枯 れ て し ま い ま し た が 、そ の 2 代 目 が わ ず か に 残 り 、季 節 になると色鮮やかな花を咲かせます。

大阪あそ歩HP・まち歩きマップより

③立森瑞神(野中の巳さん)~

立森瑞神(野中の巳さん)とは

蛇 を 主 神 と す る 小 さ な 神 社 で 、地 元 で は「 野 中 の 巳 さ ん 」と 呼 ば れ 親 し ま れ て い ま す 。大 正 末 頃 に 村 人 の 何 人 か が 、夢 に でてきた大きな蛇に「私を祀れば水不足にならないようにす る」と言われ、これは神のお告げだと、お祀りしたのが始まり で す 。蛇 は 河 川 の 神 、七 福 神 の 弁 財 天 の お 使 い と さ れ 、そ の 財 と い う 字 か ら 商 売 繁 盛 の 神 様 と し て 信 仰 さ れ て い ま す 。ま た 境 内 に は 、石 の 小 狸 三 体( オ タ ケ ・ 八 郎 ・ 長 吉 大 明 神 )が あ り、安産・病気平癒の神として信仰されています。

大阪あそ歩HP・まち歩きマップより
ローソンで一服

今回のまち歩きは江戸時代の出来事・中島大水道がメインです。

しかし現在は目に見えるものが残っていないので、まち歩きも単調になりがちです。

そんな時、ガイドさんからローソンで好きな飲み物を一つ選んで下さいと、労いの言葉をかけてくださいました。

この日は案外蒸し暑く、歩くのに疲れていたので大助かりでした。

④旧中島大水道跡~

道路に姿を変えた旧中島大水道跡

旧中島大水道とは

延 宝 6 年( 1 6 7 8 )に 3 人 の 庄 屋 ( 山 口 村・西 尾 六 右 衛 門 、北 大 道 村・澤 田 久 左 衛 門 、新 家 村・一 柳 太郎兵衛)たちと、摂津国西成 郡の北中島地域(現在の東淀川 区 ・ 淀 川 区 ・ 西 淀 川 区 )に 属 す る 22か村の農民らが、自力で開い た排水路です。資金約2000両 のほとんどを地元で負担しまし た 。こ の 水 路 は 明 治 3 2 年 (1899)の淀川改良工事まで 立派に機能し、永く住民に恩恵 を与えましたが、昭和36年 (1961)東海道新幹線工事の 開始に伴い、これと同時施工で 大水道も暗渠化され、現在は道路などに形を変えました。

大阪あそ歩HP・まち歩きマップより

⑤正通院(蔀関月墓所)~

正通院(蔀関月墓所)とは

江 戸 中 頃 の 延 享 3 年( 1 7 4 6 )に 天 満 の 惣 年 寄 を つ と め た 金 谷 歳 次 郎 が 創 建 し た 曹 洞 宗 の お 寺 で す 。金 谷 家 か ら は 三 石 ・ 遷 斎 な ど の 学 者 や 文 人 が 出 て お り 、境 内 の 墓 地 に は 遷 斎 ら の 墓 が 現 存 し ま す 。ま た 大 坂 出 身 の 江 戸 中 期 ~ 後 期 の 日 本 画 家 で 、月 岡 雪 鼎( つ き お か せ っ て い )に 師 事 し た 蔀 関 月( し と み か ん げ つ )の 墓 も あ り ま す 。関 月 は 絵 画 と 文 章 で 各 地 の 名 所 、史 跡 、名 産 な ど を 紹 介 す る 図 会(『 伊 勢 参 宮 名 所 図 会 』 、『 山 海 名 産 図 会 』 な ど ) の 挿 画 を た く さ ん 描 き 、 旅 行 などなかなかできなかった当時の人々に大変喜ばれました。

大阪あそ歩HP・まち歩きマップより

正通院から程近いところに木寺子安地蔵尊というお地蔵さんがありました。

着」ゴール解散・淀川河川敷~

今回のまち歩きのゴール・淀川河川敷に着きました。

10連休中のこともあって大勢の人で賑わっていました。

江戸時代農民は水との戦いだったのですね。

淀川も明治の改修工事で大きな洪水も無くなりました。

今後も川との付き合い大事ですね。

ガイドの井川さん、ありがとうございました。


解散後、地下鉄御堂筋線・西中島南方駅まで歩き、懇親会にも参加させていただきました。